ライヴというもの

この土日で、2つの
大学合唱団の定期演奏会に行った。

どちらもレベルの高い団で
満足のいくはずだったが
片方では、モヤモヤしたものが残り
もう片方では元気をもらった。

その差はなんだろうと考えてしまった。

ライヴというのは、
相互に与え合うものだと思う。

聴衆は、舞台で何が行われるか、期待して歩み寄り
演じ手は、日ごろの成果を聴衆へと投げかける。

そのやり取りが、
賛美であっても、非難であっても
演じ手と、聴衆の間にはやり取りが生じ
それが、お互いの生活に影響を与え合う。

演じ手にとっては、それが今後に生かされるだろう。

どちらかが閉ざした時、
そのやり取りは失われる。

そして、エネルギーの消耗が発生する。

聴衆が無関心な時、演じ手はそのエネルギーを奪われ
演じ手が聴衆を無視した時、聴衆には徒労感が残る。

土曜の、名古屋大学医学部混声合唱団の定期演奏会
このやり取りが、少なくとも僕個人のレベルでは
成立しなかった。

誤解をしてほしくはないが、
演奏は真面目で、声は美しく、ハーモニーも整っていた。
レベルとしては上位に属する。

しかし、彼らの演奏は閉じていた。
少なくとも、僕には聴衆とのやり取りを拒否しているように
感じて、演奏会が進むほどに疲労していった。

その最たるものが、第3ステージだった。
正直、途中で帰ろうかと思った。
話の筋はわからない、
台詞は聞こえない
歌詞もわからない(英語なのか日本語なのか)
最後のファントムの歌が吹き替えだと聞いて
さらに驚いた。

頑張って最後の第4ステージまで聞いた。
しかし徒労感は、より増すことになった。

僕が、ここで書いていることは非難されるかもしれない。
彼らは真面目にキッチリやっていたじゃないかと。
しかし、真面目にキッチリやることが、「ライヴ」ではない。

僕にとってのライヴとは、
やってきたことを「キッチリ真面目に見せる、聴かせる」ことではなく
練習してきたことをベースにして
新しく舞台上で作り上げることだ。

そのパフォーマンスを聴いてもらう、見てもらうことが
演じ手として、聴衆へ手渡せるものだと
そう、思っている。

それが出来ていれば、
演奏内容のレベルは第一義には来ない。

舞台上で新しく作られたものを
聴衆は贈り物として受け取るのだ。
そして聴衆は、拍手や反応を演じ手に返す。
そこに初めてやり取りが生じる。

それがライヴだ。

昨日、日曜日の大阪大学男声合唱団の定期演奏会では
その贈り物をもらった。

だから、そのおかげで僕は少し元気になった。
本当に身体の調子が上向いたのだ。

むくつけき男たちは
練習の成果をもとに、新しいものを
舞台で見せてくれた。

自分にとってライヴとは何かを、再考させてくれた意味で
この土日にあった2つの演奏会は
僕にとっては有意義だった。