母国語で高等教育を行えるということ

過激なタイトルとは裏腹に
内容は、グローバル化に対する警告と
国を成り立たせるものは何なのか
歴史と世界状況を踏まえて論じている。

エリートのみがアクセス可能になっていた
高度な知識を、現地語に翻訳し土着化し
多くの人が高度な議論に参加できるようにすることで
国家が成立したということが書かれてある。
それはルターの宗教改革から始まる。
かつての高度な知識はラテン語にあった。

時代が下り、わが国でも同様の努力をした
先人がいた。
しかし、その中で、現在と同じ主張
日本の近代化のために
英語化を進めようとした人々もいた。

が、その流れを諌めたのは、国外の
見識ある人々だったのだ。

意外と知られていないが、
明治以後新しく翻訳のために
作られた日本語は多い。

大学でも、当初は英語でしか授業を行えなかった。
しかし、翻訳と新たな言葉を作る努力のおかげで
大学での授業は現在と同じように
「日本語で」行えるようになった。

それと同時に、学生の英語力が低下したと
嘆く記事が当時、新聞に載ったそうである。

しかし、夏目漱石は、それを
「喜ぶべきこと」として捉えたそうだ。

高度な知識の吸収と議論が自国語である
日本語で行えるようになった証左であると。

大学で同期だったインドネシア人(既に、学位を取得し帰国・・・)も
母国語に訳せない表現や言葉があると言っていた。
彼は自国ではエリートだけれど、
おそらく、その知見は、母国語で共有することが
難しいのは想像に難くない。

大東亜戦争後、独立を果たした東南アジアの国々で
母国語で、高等教育まで実施できている国は
残念ながらないはずだ。
アフリカ諸国でも、植民地時代の支配国の言語が、
支配階級の言語になっている。

母国語で高度な教育ができるということは、
日本では当たり前すぎてその重要性は
あまり認識されないが
世界的にも希少価値なのだ。

本屋さんや図書館に行ってみると良い。
あらゆる時代の
あらゆるジャンルの
国外の翻訳本がいかに多いことか。

英語教育は必要かもしれないが、
英語を頂点とする言語ヒエラルキーに汲みする必要は
ないとおもう。

母国語で高等教育を行える意味を
再度思い出してみてはどうだろうか。