シンプルな原則続き

厳罰化が本当の目的ではない。殺す必要のない理由で日常において殺人が起こってしまっているこの現状を止められないかと思ったのだ。奈良の少年は、家出にしておけば良かったと言っているそうな。しかし、彼のやったことは殺人なのである。人の命を奪えばその償いは自分の命という原則があった場合彼は放火による殺人を思いとどまったんではないか?そう、思ってしまうのだ。解決手段の第一候補が殺人になってはいまいか?どんな馬鹿でも自分の命は惜しいのではないか、その一点に希望はないだろうかと思うのだ。このままいけば、小学生が殺人を安易に行うのではないかと危惧してしまう。未成年が殺人を犯した場合はその親も同罪。命を持って償う。成人した場合はその当人の責任。そういう原則は無理なんだろうか?法制化は無理としても、そういう倫理観を取り戻すことはできないだろうか?失う必要のない命を守れないだろうか?

生きているという感覚に乏しいのだろうか?生きていることと死ぬことは、互いにそっと寄り添っている。生きることは死ぬことであり死ぬことは生きることなのだ。死を意識しない生き方は生きているとは言えない。自分は死なないとでも思っているんだろうか?近しい人の臨終に立ち会えた人は幸いだと思う。必ずその人は死について考えるようになるからだ。そのためには近しい人がいないといけない。近しい人、人たちを得て別れることは悪いことじゃない。死について考える自分なりの考えを持つそんな機会を持たない人がひょっとしたらかなり多いのだろうか?