『0.序』、『1.科学のあけぼの』−宮沢賢治と科学史

そもそものきっかけは、昔、柴田南雄の「自然について」を
演奏した事でした。

その中に、春と修羅の序を歌う部分がありました。

内容は難解ですが、しかし書かれてある内容は
「科学」が賢治を通して、「詩」という媒体に翻訳されたような
そんな内容でした。

賢治のいくつかの作品の中にも
当時の科学技術を盛り込んだであろう言葉が
所々に見られます。

その時から漠然と、彼の生きた時代の科学に
興味があったのでした。

すべてを網羅できるわけではありませんが
当時、賢治が何を知り、どこまで分かっていたのか
科学史を手がかりに書いていきたいと思います。



(1)『科学のあけぼの』

結構遠い昔、自然に対して人はわずかなことしか知りませんでした。

でも、程なくして、自然を観察し、分かったことから
自然を理解していこうという人々が現れました。

空に見える星や月、太陽は、
この大地を中心に回っていると考えました。
自分たちが立っている大地の姿も、はじめは
平たい円盤で、海の果てに行ったら
それ以上は行けないと考えていました。

やがて、地球が丸いとわかり、
月食、日食などは神々の悪戯ではなく、
月や地球の影が引き起こしていると知るようになります。

この世界を構成している物質に関しても
いろいろな説が出てきました。

すべては水から出来ているという人がいたり
空気だと主張する人もいました。
この時代に、自然科学に貢献した人で有名なのは
アリストテレス(B.C.384-322)です。
彼は土、水、空気、火、エーテルの5元素と主張しました。

いろいろな主張をする人の中には、非常に小さいものが集まって
我々の体を始め、すべてのものが出来ていると
主張する人もいました。最初の原子論です。
ちなみにデモクリトス(B.C.460-370)という人です。

しかし、人の五感のみでとらえることの出来る範囲は
どうしても限られてしまいます。

新たな道具を手に入れるまで、
人は新しい事実を手に入れることが出来ませんでした。

ここまでが紀元前のお話です。


15世紀半ばにドイツのクーテンベルグ(1390-1468)が
印刷技術を発明します。
1454年のことです。
最初に印刷されたのは聖書でした。
多くの人に考えを伝える手段という観点から
この発明は後々大きな意味を持ちます。

空を見上げることをやめなかった人々の中で
宇宙の新しい姿が提唱されるようになりました。
地球は宇宙の中心ではないという主張、地動説です。
言ったのは、コペルニクス(1473-1543)です。
その説は本としても印刷されました。
16世紀の半ば1543年のことです。
(シュッツが生まれるちょっと前ですなぁ)

しかし、この主張はしばらくの間
公に言うことははばかられる時代がしばらく続きます。
本は残念ながら、禁書扱いになりました。

この時まで、人々は自分の目で空を見続けていました。

17世紀の初め、1608年にオランダの眼鏡職人が
望遠鏡を発明します。戦争に有利だったため
製法は秘密にされましたが、あっという間に広まり、
腕に覚えのある人が自分で作ってしまい、
秘密でも何でもなくなってしまいました。

その腕に覚えのある人の中の一人に、ある天才がいました。
ご存じ、ガリレオ(1564-1642)です。
望遠鏡はもともとは遠くの景色を近くに見るために作られ
腕に覚えのあった多くの人は、当然そういう使い方をしました。

しかし、そこはガリレオさん、望遠鏡を空に向けたのです。

より詳しく空を観察した結果、やっぱり天動説はおかしいと
地動説の方がどうやら正解じゃないかと、
気がついてしまいました。

イタリア語で本を出しましたが、えらい問題になって
発言を撤回させられた上、本も禁書扱いになってしまいました。
17世紀前半、もうすぐバッハが生まれるであろう1633年のことです。

ただ、印刷して世に出た本を全部回収するのは無理なわけで
あかんと言われたら、
捨てるのが惜しくなり、なおさら読みたくなるのも人情です。
禁書と言われつつも、コペルニクスの主張やガリレオの主張は
後世に影響を与えました。(本は多くの人に読まれたということ)

そんな中、ガリレイの亡くなった年に一人の天才が産声を上げました。
アイザック・ニュートン(1642-1727)です。

万有引力、運動の3法則、光の粒子説、微積分法の開発など
彼の業績は偉大なものばかりです。
これらは17世紀の後半、1687年に発行された
「自然哲学の諸原理(プリンキピア)」に集約されます。
(バッハ2歳のときですね)
このことは、科学革命とまで言われています。

しかし、一体彼の何が凄かったか?

それまでの科学は、
地球や宇宙をはじめとする自然が【どういう姿をしているのか】
多くの知識と情報を与えてくれました。
数多くの先人達が残したものです。

それに対し、これ以後の科学は
地球や宇宙をはじめとする自然が【どうしてそういう姿をしているのか】
説明出来るようになったのです。

一見複雑に見える現象の裏に、単純な法則が隠されていて
それを表現することが出来るようになったのです。

たとえば、ガリレイは重さの異なる物体の落ちる速度が一定であることは
実験により示せましたが、
それが【どうしてそうなるのか?】は説明できませんでした。

でもニュートンが考え出した道具(理論)を使えば
簡単に説明できるようになったのです。

人々は非常に優れた道具を手に入れました。

一つは、自然に潜む法則を、数式で表せるようになったこと。
もう一つは、光のスペクトルです。

これ以後、科学の発達は堰を切ったように
その速度を上げていきます。

地動説を押さえ込むことは不可能になっていきました。

そして産業革命が起こった18世紀1700年代を迎えます。

電気現象の解明も始まりました。
ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)が避雷針を発明したのは
18世紀中頃、1752年のことです。

その6年後1758年には、ハレー(1656-1742)が予言したとおり
彗星が空に現れ、大騒ぎになりました。
(これ以後ハレー彗星と呼ばれます)

彗星、小惑星、衛星、星雲の発見ラッシュが始まります。

ベートーヴェンモーツアルトハイドンなんかはこのへん)

いよいよ賢治の生まれた19世紀、1800年代を迎えます。
光のスペクトルを用いることにより、
元素の発見ラッシュも始まります。

化石の発見から地質学も発達の歩みを始めます。

19世紀初め、1831年に発電機が発明され、電気の利用が
一気に進むことになります。
(ファラデーの実験が元になっています)

古生物の生きた時代の最初をカンブリア紀と名付けられたのも
このころです。
恐竜という呼び名も、このころに付けられました。

19世紀中頃1855年には、ファラデー(1791-1867)の実験によって
明らかになった電磁場現象をマクスウェル(1831-1879)が数式化しました。

翌年、1856年ネアンデルタール人の化石の発見。

その3年後1859年、ダーウィン(1809-1882)により「種の起源」が出版され
一大センセーションを巻き起こします。

やがて、スペクトルの利用方法が発達することにより
遠く離れた星がどのような元素で構成されているかも
分かるようになってきます。1863年のことです。

これ以後、目立ったものを挙げると・・

1866年 ダイナマイトの発明

1867年 明治維新

1868年 クロマニョン人の化石の発見
1872年 日本で鉄道が開通
1873年 人間の細胞分裂の様子が初めて観察
1875年 ベル(1847-1922)が電話を発明
1876年 ガスを用いた内燃機関の発明
1877年 アメリカ人の動物学者モースにより日本に進化論が紹介される
1879年 エジソン(1847-1931)により白熱電球が発明される

1885年 ダイムラーとベンツ(1844-1929)により最初の自動車が作られる
1888年 ヘルツ(1857-1894)がマクスウェルにより予言されていた電磁波を発見

1895年 レントゲン(1845-1923)がX線を発見
    映画が発明される
1896年 ベクレル(1852-1908)により放射線が発見される

そして、この年1896年の8月27日 宮沢賢治が生まれます。
この年の暮れにノーベル(1833-1896)が亡くなって、ノーベル賞
設立されています。

こうして、ざぁーっと見ていくと、
賢治は科学技術が未来と希望に満ちあふれていた時代に
生を受けた感じがします。


科学の世界では
ニュートンの運動法則、光のスペクトルの発見などの業績が
多大な影響と恩恵をもたらしていました。

以後、賢治が生まれてからの出来事ですが、もう少し細かく見ていきます。
()内は賢治の年齢【】は賢治のトピック

1897年( 1歳)キュリー(1867-1934)がウランから放射線が出ていることを発見
       ラザフォード(1871-1937)が様々な種類の放射線を発見
1898年( 3歳)キュリー夫妻がラジウムポロニウムを発見
1901年( 5歳)イギリスからカナダへ最初の無線信号を送る実験成功
       第1回ノーベル賞がレントゲンに贈られる
1903年( 7歳)ライト兄弟(1871-1948弟 1867-1912兄)が
       人類初の動力飛行に成功
1905年( 9歳)アインシュタイン(1879-1955)が特殊相対性理論を発表する
1906年(10歳)天の川の星分布図が作成され、銀河の直径、厚みなどが
       明らかになる
1908年(12歳)原子の直径が計算で求められる
       ドイツの物理学者ガイガー(1882-1945)が放射線検出器を発明
1909年(13歳)地殻とマントルの境界面が発見される
1911年(15歳)原子の構造が解明された(ラザフォード)
1912年(16歳)大陸移動説が唱えられる

1912年 大正元年

1913年(17歳)ボーア(1885-1962)が原子の構造に関して革新的な理論を発表
1915年(19歳)遺伝子が染色体の中にあることが証明される
1916年(20歳)アインシュタイン一般相対性理論を発表
1918年(22歳)天の川の正しい大きさを測定、太陽の位置が分かる
       【このころから童話の創作始まる】
1921年(25歳)【花巻農学校の教師になる】
1922年(26歳)【11月トシ永眠】
       11月アインシュタイン来日、相対性理論ブームに
1923年(27歳)恐竜の卵の化石が発見される
1924年(28歳)【銀河鉄道の夜初稿、種山が原もこのころ】
       【春と修羅第1集出版】

1925年 昭和元年 日本で最初のラジオ放送始まる

1929年(33歳)観測結果から宇宙が膨張していることが確認
1930年(34歳)冥王星が発見される
1931年(35歳)宇宙から降ってくる電波を捉えることに成功
1932年(36歳)中性子が発見され、原子核の構造が明らかになる
1933年(37歳)【9月23日賢治永眠】

ここに挙げたのは、科学技術の業績のごく一部です。

ここから言えることは、賢治の生きていた時代に、
ニュートンが17世紀にもたらした科学革命と
同等の変革が起きていたと言うことです。

ニュートンがもたらした恩恵で、人類は
太陽系のことと、銀河系の一部のことを理解し
物質を構成するものが多くあることまでは理解しました。
ここまでが賢治生誕までです。

そして、アインシュタインの出現により、賢治が生きている間に
人類は太陽系を飛び出し、遙か彼方の宇宙へ、宇宙の神秘に触れ、
物質を構成する要素へ深く入り込み、世界を構成する秘密に触れることが
出来るようになりました。

しかし、この時代の人々は「科学が全人類を滅亡させることになる」
なんてことは、まだ思いもよらないことだったんです。

科学に暗い影を落とす、核分裂の発見は、賢治の死から5年後
1938年のことでした。

つまり、賢治は科学の輝く部分だけを見て、
この世を去っていったんでしょう。
原爆が落とされたのは、賢治没後わずか12年後の1945年なわけですから。

賢治がもう少し長生きして、科学の闇の部分を目の当たりにしていたら
どのような作品を生み出したのだろう?なんてことを考えてしまいます。

ここで、長々と書いてきたことは、科学史のごくごく一部ですし
世界史、日本史には触れていません。
科学技術の発達が貧富の差や、戦争をもたらしたことについても
ほとんど触れていません。
もし、興味がわきましたら、その方向から調べてみるのも
面白いかも知れませんね。

お付き合いありがとうございました。

●参考文献
1)アイザック・アシモフ著 小山慶太・輪湖 博共訳 
  コンパクトサイズ アイザック・アシモフの科学と発見の年表,丸善(株)
  (1996)
2)アイリニック・ニュート著 猪苗代英徳訳
  世界のたね−真理を追い求める科学の物語−,NHK出版(1999)
3)花巻市ホームページ 宮沢賢治 http://www.city.hanamaki.iwate.jp/kenji/



宮沢賢治シリーズの演奏会用(その1、その2)にと
僕の方で、独自に調べ、まとめたものです。

仕事でも、職場の年表を作りました。
その時に、世界や日本のトピックの中に
科学史も入れた方が良いかなと思い
色々書籍を買っていたのでした。

本当は先月の
邦人の演奏会に間に合わせたかったのですが
調べる量が思ったより膨大になったのと
仕事が大変だったのもあり
遅れに遅れてしまいました。

ただ、ここにかけた時間は
自分の仕事を見直す
良いきっかけになったように思います。

このように科学史を真剣に追いかけたことは
今までありませんでしたから。

理系の学生さんなんか
特別講義でも良いから
科学史を学ぶ機会があってもいいのかな
と思いました。

昔、子供の頃に
学研のひみつシリーズに夢中になっていたのを
思い出しました。
「宇宙のひみつ(第1巻)」には
相対性理論の事が書いてあったんですよね。

あのころは漫画はそれしかなかったし。