寒い日が続きます

この時期、
大阪駅のホームは
ディーゼル車のはき出す
排ガスの匂いに包まれます。

日本海側へ向かう臨時列車です。
カニカニ○○号とか)

排ガスは、
勘弁して欲しいところですが
朝、駅のホームへ上がって
この匂いをかぐと
寒い季節になったんだな
と感じます。

そして、ここ数日
本当に寒いです。

そういえば、
震災のあった朝も
それからしばらくも
体験したことのないような
寒さだったことを
思い出しました。

電気がしばらく使えなかったですが
そのおかげで、
月がきれいに見えていたのも
思い出しました。

震災がなければ
今のような感じで
音楽を続けていなかったかもしれない。

95年という年は
僕がシュッツに入って
まる2年が過ぎて、
3年目に入った年だった。

この時の僕は
精神的にまだまだ未熟で
歌に関しても
努力の足りないせいで
うまくいっていなかった。
(社会人としても未熟だったのは言うまでもない)

でも、そのことを
自分に問うわけでもなく
ただただ、くさっていただけだった。

震災の前日に
オーディションのための
レッスンがあったのだけれど
うまく歌えるわけもなく
やる気をすっかり失っていたのだ。

だから、あのまま
何事もなく
オーディションに突入していたら
今頃どうなっていたか
わからない。

やめていてもおかしくない
精神状態だった。

回りが僕をどう見ているとか
どんな風に期待をかけてくれていたとか
全く見えていなかったし
そのありがたみが全くわかっていなかった。

そんな中で、
震災が起こったのだ。

否応なしに
合唱団と分断された。
それから1ヶ月以上
物理的に大阪に
出ることができなかったのだ。

そのいけなかった間にあった
室内合唱団の演奏会は
当然出演できなかった。
(後にも先にも穴を開けたのは
この演奏会だけかもしれない)

ようやく、大阪に出た時の
あの違和感は今でも忘れることができない。

そして、みんなとのギャップも。

この時、合唱団は
バッハのヨハネ受難曲の練習をしていた。

しかし、
みんなと声を合わせることは
全くできなかった。

そんな中、演奏会を迎えた。

下男と下役で一声だけ
歌うところでひっくり返ってしまった。
(ビデオとテープで残っている)

でも、最後に向かうにつれ
心がほぐれてきたのだ。

終曲のコラールでは
泣きこそしなかったものの
目には涙があった。

声がひっくり返った失敗もあったので
打ち上げに出るか迷った。

その打ち上げの席で