神戸新聞の7日間 〜命と向き合った被災記者たちの闘い〜

録画してあったものを
今、見終わった。

最初から最後まで
涙が止まらなかった。

自分でも今ひとつ理解できないほどに
こみ上げるものがあった。

僕は、その当時
亡くなっている方を見ることは無かった。
気がつかなかっただけかもしれない。

僕が目の当たりにしたのは
県職員として
避難所パトロール
東灘区の救護対策本部詰めなど
ドラマで描かれた
その後だ。

でも、このドラマを見て
こみ上げる何かを押さえることができなかった。

あの震災を体験したものとして
心のどこかが共振したんだろう。

僕にとって神戸という街は
いろんな想い出がある。

一つは、親に連れられて
おでかけする街。

もう一つは、
高校時代を中心として
青春を過ごした街だ。

神戸新聞があった
新聞会館は、親とお出かけして
映画を見に行ったり
食事をした想い出があった。

だから、ドラマで出てきた
崩壊した新聞会館の映像は
悲しい思いで見た。

記者が取材する様子は
自転車で、東灘から鷹取へ向かう時に
目の当たりにした
覚えのある街の崩壊した姿を
想い出させた。

その時の
怒りとも
悲しみともつかない感情。
その後やってきた無力感。

たぶん、その
いろいろなものが混じった
感情が、心の底にあって
それが揺り動かされたように思う。

しこりとか、そういうもんではなく
里程標(マイルストーン)なんだろうな
と思った。

三木康弘さんの社説(神戸新聞1995年1月20日付「社説」)
1995年1月20日朝刊1面


「被災者になって分かったこと」


 あの烈震で神戸市東灘区の家が倒壊し、階下の老いた父親が生き埋めになった。三日目に、やっと自衛隊が遺体を搬出してくれた。だめだという予感はあった。


 だが、埋まったままだった二日間の無力感、やりきれなさは例えようがない。 被災者の恐怖や苦痛を、こんな形で体験しようとは、予想もしなかった。


 あの未明、ようやく二階の窓から戸外へ出てみて、傾斜した二階の下に階下が、ほぼ押し潰されているのが分かり、恐ろしさでよろめきそうになる。父親が寝ていた。いくら呼んでも返答がない。


 怯えた人々の群が、薄明の中に影のように増える。軒並み、かしぎ、潰れている。ガスのにおいがする。


 家の裏へ回る。醜悪な崩壊があるだけだ。すき間に向かって叫ぶ。


 何を、どうしたらよいのか分からない。電話が身近に無い。だれに救いを求めたらよいのか、途方に暮れる。公的な情報が何もない。


 何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ、走っていく。彼の家もぺしゃんこだ。それでも駆けつけてくれる。


 裏から、のこぎりとバールを使って、掘り進んでくれる。彼の道具も失われ、限りがある。いつ上から崩れてくるか分からない。父の寝所とおぼしきところまで潜るが、姿がない。何度も呼ぶが返事はなかった。強烈なガスのにおいがした。大工さんでは、これ以上無理だった。


 地区の消防分団の十名ほどのグループが救出活動を始めた。瓦礫(がれき)の下から応答のある人々を、次々、救出していた。時間と努力のいる作業である。頼りにしたい。父のことを頼む。だが、反応のある人が優先である。日が暮れる。余震を恐れる人々が、学校の校庭や公園に、毛布をかぶってたむろする。寒くて、食べ物も水も乏しい。廃材でたき火をする。救援物資は、なかなか来ない。 いつまで辛抱すれば、生存の不安は薄らぐのか、情報が欲しい。


 翌日が明ける。近所の一家五人の遺体が、分団の人たちによって搬出される。幼い三児に両親は覆いかぶさるようになって発見された。こみ上げてくる。父のことを頼む。検討してくれる。とても分団の手に負えないといわれる。市の消防局か自衛隊に頼んでくれといわれる。われわれは、消防局の命令系統で動いているわけではない、気の毒だけど、という。


 東灘消防署にある救助本部へいく。生きている可能性の高い人からやっている、お宅は何時になるか分からない、分かってほしいといわれる。十分理解できる。理解できるが、やりきれない。そんな二日間だった。


これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。“災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜(ふそん)さ、甘さを思い知る。 この街が被災者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う。