敬意の所作と習慣

国歌、国旗に対する敬意に関して。

日本という国の構成を考えるうえで、
少数の異なる意見を持つ者や、
時に、世間に対して攻撃的な態度を持つ人を
ある程度まで許容することは、必要だろう。

ある程度の成員で構成される集団の場合、
一定の割合で、
いわゆる困った人を許容する、のりしろみたいなものは
必要かもしれない。

その考えが広く認められるかどうかは別として、
国旗や国歌に敬意を抱かない自由は
保障されてもいいだろうという主張は、
ありだということだ。

内田樹氏はHPで、
アメリカは国旗を損壊する自由を認めたとあるが、
これに関してはどうやら、そのアメリカでも
結論はまだ出ていないようだ。
(もう少し、情報を仕入れようと思う)

要するに、まだ、もめているということだ。

だから、日本でも、せいぜい喧々諤々議論すればいい。

内田氏は星条旗の損壊を認めることで
星条旗の威信が高まったとおっしゃっているが、
本当にそうかな?

知り合いに、国旗を燃やしたり破ったりする人がいたら、
ひとまずは、理由を尋ねるかな。
でも、いい気分はしない。
他国の国旗でもそうだ。

理由如何によっては、距離を置くか
袂を分かつかもしれない。
僕は、日本のシンボルを大事にしたいと思っている。

別にそこまでアメリカをまねる必要もあるまいに。

集団を構成するためには、
何かシンボリックなものは必要だと思う。
目に見えるものでもいいし、
信条など目に見えないものでもいい。
それらに対する敬意は、
集団を構成するための、接着剤のようになっている。

それに異議のある人は、
その集団から離れてもいいし、
その集団が融通の利くところなら、
所属し続けることもできるでしょう。
でも、それはその集団をぶっ壊さない
不安定にしないという条件付きだろう。

それをバラバラにする、
不安定にする因子は、
通常その中にいることは困難だ。
普通はお互いのために袂を分かったほうがいい。

で、そのシンボルに対する敬意は、
どんな風に育てられるか?
そういう気持ちを持ってメンバー入りするのもあるだろう。
集団によっては、そんな気持ちもなく入って、
そのうち、敬意が育まれることもあるだろう。

僕は形から入るということが、
思ったより大きいと思うのだ。
意味が分かってその所作をする場合もあるだろう。
でも、所作が最初にあって、後々意味が分かってくる、
その習慣によって敬意が後からついてくることも
往々にしてあると思えてならない。

所作をまねたり、習慣化することの重要性を、
もっと考えたいのだ。

http://mixi.jp/view_item.pl?id=1403881
池谷裕二
脳はなにかと言い訳する”
のなかで
人間は、行動が先でその後、思考がついてくるという
研究結果があると書いてあった。

とすると、
国歌や国旗に対する敬意を
習慣化するというのはありなのではないかと
思うのだ。

意味は、知識を得て、
自分の考えを持つようになってから
知っても遅くはない。

日本という共同体で、シンボルの一つとしての
国歌と国旗はありだと思うのだ。

それを認めたくない人も、居て良いと思うが、
こと、それが教師の場合はNoである。
ましてや公立の場合は、そんな教師は首にしてほしい。
そんな奴、教員採用受けるなよ。
そんな奴に税金使われんのはまっぴらごめんだ。
それをこれ見よがしに、入学式や卒業式でやるな!
ということだ。

その意味で、大阪府条例案は、
恥の極みではあるが賛成だ。
こんな条例なしに、
卒業式や入学式が行われるほうがいいわけで。
普通にやっている先生方には、
全く影響のない条例でしょう。

形を守るということは
良いところ悪いところ両方あると思うが、
敬意の所作、習慣は大事にしたいと思う。

個人的なことを言わせてもらえば、
自分は両親に対する敬意はない。
所作を習慣づけるチャンスはあったかもしれないが、
母親の父親に対する、まったく真逆の行為を見るにつけ、
無くなっていき、それと同時に
その行為を行う当人(母親)に対する敬意も消滅した。
それが引き起こされたのは小学校高学年から中学にかけて。

低学年くらいまでは、親に対する敬意を保とうと、
小さいながらに、何とか頑張っていたような、
うっすらとした記憶はあるが、
その後、それはすべて破壊された。

所作や習慣のレベルで、
夫婦間に敬意があれば、
ここまで至らなかったかもしれない。

ゆえに、母親と似た言動や所作を見ると、
敬意が吹っ飛ぶことがある。

それは、今も尾を引いている。
こんなこと、僕だけならいいが、
悪い習慣も身につくのだ。

自国の国歌や国旗に敬意を抱く習慣があった場合、
他国の国歌や国旗に対して敬意を抱くようになる確率は
そうでない場合に比べてきっと高くなると思う。
ある一定数、そうでない人も出るかもしれないが。

国歌や国旗を基盤として
話を進めるわけにはいかんのだろうか?
この話題が出てくるたびにそう、思ってしまう。