音楽に触れる

実はクラシックが苦手だ。
何が苦手かというと、
一番の要因は、
いわゆる、クラシック好きな人たちの
話に全くついて行けないからだ。

そういう時、曲名のみが話に上り、
(いわゆる定番の曲なんだろうが)
誰も口ずさんでくれる人はなく
何のことかさっぱり分からないまま、
時間が過ぎていくのだ。

ポップスなんかは、誰か歌うし、
頻繁に耳する機会もある。
でも、クラシックは
仮に街角で耳にしたところで、
誰の曲かはわからない。

演奏を聴いている時でも、
聴き逃したくないのに、寝てしまう。

じゃあ嫌いか?と問われれば、
好きな方だと答える。

クラシックの良さに関しては、
門前の小僧習わずとも経覚えじゃないが
アンサンブルのメンバーの生演奏を聴いていれば
それが良いことくらいはわかる。

ただ、苦手という気持ちは、
なかなか改善されなかった。
どうにかしたい、という思いはずっとあり、
それこそ、ずっともがいていたのだ。
その期間は10年じゃきかないだろう。

先日、大阪コレギウム・ムジクム
アンサンブルのメンバー中心の演奏会があった。

始まるまでは、客席で、
寝てしまうんじゃないかという懸念と、
良さを理解したいという
その、なんとも形容し難い思いでいた。

ベートーヴェンが始まる。
オクターブの揃い方が美しい。
倍音が立ち上って行く。

モーツァルトの管楽。
流れが素晴らしい。
オーボエクラリネットの交歓が、
まるで会話を楽しんでいるかのよう。
フレーズの頭が、あり得ないくらい揃う。

ブラームスのホルンと女声合唱。
去年の演奏旅行で、
その中に加わるのを躊躇した(要はビビった)
女声の響き、ハーモニーが立ち上がる。
途中から、その響きのためか、
ドイツの天井の高い教会で聴いている
そんな感覚に襲われる。

チャイコフスキーの弦楽セレナーデ。
ハーモニーが更に研ぎ澄まされる。

ここに来て、徐々に
思考が止まってくる。
その代わりに、
「音」のみを耳が追いかける、
「音」だけに、心も体も反応する感覚に
いつしか襲われていた。

いつも、音楽と思考が同居していたのが、
「音」のみになっていく。

それは、外国語で作文したり翻訳したりするうちに
外国語を外国語として
思考していく感覚に似ていた。

翻訳作業なしに、
「音」で思考する、そんな感覚だった。

「音」と気持ちが、直接触れ合ってくる。
そこに、言語が無い。
「音」だけがある。

でも、喜怒哀楽の感情が
「音」と感応する。

でも、それは言語化されない。
でも、心が震えるのだ。
気がつけば、この日の演奏会、
一音も聴き漏らさず聴いていた。

翻訳の苦しみから解放され、
「音」を理解した瞬間だった。

でも、その魅力を語る言葉を
僕はまだ持たない。

でもいつか、映画やドラマや
その脚本や監督、演出家、
俳優のことを語れるくらい
このことを語ってみたい気持はある。