先の選挙について

大阪の選挙についての記事がチラホラ散見される。
橋下知事の批判記事に共通する匂いは、
海のものとも山のものともしれない、
新しい勢力が勝利し、構造を変えていくことに対するビビりだ。
あるいは、面倒くささか?

そして、その論拠で引き合いに出されるのが、
ヒトラーであり、今日読んだ記事はムッソリーニだった。
で、だいたい、先の戦争体制のことが引き合いに出される。
そういうことを書く人たちは、投票した人に対して
こいつら馬鹿だと言っていることに気がついているのだろうか?

で、今までの日本で民主主義が【正常に】運営されていたと
のたまう。
選挙も、民主主義の象徴として、
それを運営する官僚制度も、民主主義にのっとって
【正常に】運営されていたと。
それを半ば独裁のような形で、引っ掻き回す橋下はケシカラン!
というわけだ。

本当にそうか?

個人的には、今回の選挙、自分の一票で、
大阪都を見てみたいという思いで入れた。
橋下市長の著作も読み、
ツイッターで流れる主張も読み、
納得の上だ。

批判記事を見ると、そういうのを読んだ上で
書いていると思われる記事は少ない。

できれば、読んだ上での批判記事も読みたいが、
そういう書き手は少ないようで残念だ。
こうして振り返ると、
今までのは選挙でも何でもなかった。
通りたい人の就活がどんどん最適化されただけで、
平松氏がやっていたようなことが
これまでの選挙だったのだ。

だから、公約に対しても責任は取らないし、
投票した方も覚えちゃいない。

そんなもの、民主主義なはずがなかろう。
批判記事の根っこがすでにおかしい。
残念だ。それもいい歳した人が書いているものが。

そして、今回、既存のメディアがその力を失ったことも
はっきりしてしまった。

あれだけネガティブキャンペーンをしたにもかかわらず
大差がついてしまった。
民衆は、既存のメディアが考えるより
賢くなっている割合が増えていると思うけどな。

何れにしても、色んな物の転換点であったことは確かだ。