体調管理について

冬のオフに入って体調問題なし。
この10年くらいは
冬のオフになる度に体調を崩していたけど、
今回はその気配がない。
だいたい風邪引くパターンだけれど、
風邪引かなくても、
疲れで起き上がれないことが多い。

今年に何気なく飲み始めたアミノ酸のサプリは
確実に効いている。

色々調べてみると、
ラソンをする前とか
した後にアミノ酸サプリメントを服用する
という記事を見た。

合唱団の演奏活動は、
1回のステージが2時間強、3時間弱あるわけで、
それまでの練習などを冷静に見ると
長距離走を、時間だけ見れば
ラソンやってるみたいなもんで、
競技選手に準ずる管理が本来は必要なんじゃないかと思う。

その演奏会本番を年間に大小含めて20回弱やっているのだ。

そう考えると、
アミノ酸サプリメントで調子を整える、
その結果として体調が整うことは
理に適っている。

今回のヴェスプロは、個人的にはまさしく長距離走だった。

スタートは全力疾走(最初の一声など)、
中盤も全力疾走(7.Duo Seraphim、9.Audi Coelum、10.Lauda Jerusalem)、
終盤に少し休憩(11.Sancta Maria、12. Avemaris stella)が入るも、
終わりに再びダッシュ(MagnificatのGloria)みたいな。
コース経験は21年ぶり2回目。競技歴は今回含めて8回。

書いてて疲れてきた。
このまま波乱もなく年を越せそうだ。

名古屋ビクトリア合唱団第16回定期演奏会

1ステ
パートバランスも良いし完成度の高い演奏。
以下は好みの問題、
2曲目のsana meのアルトの入りと、
3曲目の5度の跳躍(違うかも)が、
若干低く聴こえてしまった。
あとは全体での五度のハモリが
少しだけ違和感があった。
あくまで僕の耳の問題かもしれない。
2群に分かれた後の安定ぶりは良かった。

2ステ
五度の違和感はなくなった。
特に終わり二曲が圧巻。
本場で歌って来た感が滲み出ていた。

3ステ
ライブで聴いたのは初めて。
面白い曲だな。
1曲目の掛け合いでベースとテノール
オッさんと小学生くらい迫力に差があった。
仕方ないか。
2曲目クラスターが美しい。
うちの団の掛け声隊の凄さを再確認。
次やるときは暗譜なんだろうか・・・。

4ステ

TCMC第7回定期演奏会

シュッツのコーアムジーク。
個人的な好みで言えば、子音がもっとゴツゴツしている方が良いが、
難曲ばかりをピッチの乱れもなく歌い切るのは見事。
印象に残ったのが明るいアルトの響き。
曲の印象も良い意味で変わる。

ブルックナーのモテット。
ハーモニーは所々乱れるも概ね良い感じ。
パートバランスは?な所あり。ソプラノが弱い?内声以下が良く聞こえる。
テノール最後のアレルヤは決まったな。
難しい曲ばかり、お疲れ様です。

にじ色の魚。
学生が聴いていたら、間違いなくやりたくなるような
木下牧子のハーモニーは鳴っている。
惜しむらくはパートバランス。
ソプラノが弱いように感じた。
意外だったのは、アカペラと比べてピアノとハモっていないこと。
前半と後半で別の合唱団のようだ。そう感じたのは、僕だけだろうか?

良寛相聞。ピアノとのアンサンブルが出来ている。
ではさっきのは・・・。終曲、アカペラからのピアノぴったり。
その後のアンサンブルも聴かせる。ピアノとのハーモニーも美しい。
合唱とピアノはこう演奏するんだという演奏。
一体感は素晴らしい。

TCMC第6回 教会コンサート

・ビクトリア
響の保ち方、ピッチなどは良かった。
崩れそうになる場面がありながらも、
ほとんど下がらなかった。
僕の座った下手側後ろから2番目の席では、
母音の区別と子音が聞こえにくかったため、
歌詞カードを確認することが多かった。
全パートそんな感じだったので場所のせいかもしれない。

・ラインベルガー
曲の雰囲気は良くわかり、良かった。
しかし、この曲も母音と子音が僕には聴こえづらく、
比較的短い単語「nos」が「ナス」に聞こえたり、
israelが「アスロエル」「イッサエ」に聞こえたり、
言葉が気になってしまいました。
全体の雰囲気は良いのですが
歌詞が聞き取れないのが個人的にストレスになってしまった。

パート内で母音の響きや子音が揃っているのだろうか?

・武満のうた
ハモりも良かったし、言葉もよくわかった。
一部「見えない子ども」でソプラノの歌詞が
分かりにくいところがあった。

・千原のどちりな
あんまり生で聞いたことがないかも。
熱演だったと思います。
この曲中のラテン語は区別がついた。
ビクトリアやラインベルガーとの差はなんだろう?

・アンコール
男声は緊張が解けたのか、
ボリュームが一段上がって聞こえた。
教会が鳴っていた。ノリが良くて好印象。
女声は綺麗でした。
前半の洋物で少し気になったパート内でのバラつきは
ほぼなかったように思いました。
最後のラインベルガーは、
再びラテン語が分かりにくくなりました。
israelという言葉はあったのか?
「イッサエ」に聞こえて、個人的に気になりました。
もし無かったらなんの単語だったんだろうか。
israelという言葉は結構大事だと思うんだけどな。

全体を通しては、ハーモニーが良かったと思います。
多少の乱れではビクともしないのは、聞いていて安心感がありました。

国境(くにざかい)

自分も含めて、今の日本人は
国境が陸続きであることが何を意味しているか
本質的に理解できていないと思う。

ずっとそうだったわけではないだろう。

古くは多くの国が日本にはあったので、
他国と国境(くにざかい)を接する実感はあったんだろう。

明治以後、一つの国という体を取った後、
国境は海になった。

しかし、明治以前の記憶のある人たちは、
国境というものを今とは違った意味合いで捉えていたことは
想像に難くない。

それは戦前の日本の外交を紐解けばよくわかる。

難しくいえば、安全保障、
平たくいうと、隣との関係をどうするか
ということ。

想像力を働かせるしかないんだが、
言葉も文化も違う人が、
国境を徒歩で進入できて、
その人たちが、友好的である保証はない
という状況が日常的であったとする。

そのような国境が、
自分の居住地から数キロ圏内であったとしたら。

遮る山も河も森もない、平原だけが間にあったとしたら。
世界中に現在もそのような場所は沢山ある。
むしろ国境が陸続きがスタンダードだ。

自分の国の周りがすべて他国で
陸続き、徒歩で進入可能だったら・・・。

自分を、家族を、友人を、国を守るために
考えなければならないことは何か?

国のあり方はどのようにあるべきなのか?

そんな話をする日常が、日本にあっても良いと思うのだ。
そのために
歴史学地政学政治学、経済学、
芸術、音楽、地理、文学、哲学
が存在しなければならないし、
自国の歴史を世界史とのつながりで
語られなければならないと思うのだ。

少しでもそのことに思いを馳せられないものだろうか?

母国語で高等教育を行えるということ

過激なタイトルとは裏腹に
内容は、グローバル化に対する警告と
国を成り立たせるものは何なのか
歴史と世界状況を踏まえて論じている。

エリートのみがアクセス可能になっていた
高度な知識を、現地語に翻訳し土着化し
多くの人が高度な議論に参加できるようにすることで
国家が成立したということが書かれてある。
それはルターの宗教改革から始まる。
かつての高度な知識はラテン語にあった。

時代が下り、わが国でも同様の努力をした
先人がいた。
しかし、その中で、現在と同じ主張
日本の近代化のために
英語化を進めようとした人々もいた。

が、その流れを諌めたのは、国外の
見識ある人々だったのだ。

意外と知られていないが、
明治以後新しく翻訳のために
作られた日本語は多い。

大学でも、当初は英語でしか授業を行えなかった。
しかし、翻訳と新たな言葉を作る努力のおかげで
大学での授業は現在と同じように
「日本語で」行えるようになった。

それと同時に、学生の英語力が低下したと
嘆く記事が当時、新聞に載ったそうである。

しかし、夏目漱石は、それを
「喜ぶべきこと」として捉えたそうだ。

高度な知識の吸収と議論が自国語である
日本語で行えるようになった証左であると。

大学で同期だったインドネシア人(既に、学位を取得し帰国・・・)も
母国語に訳せない表現や言葉があると言っていた。
彼は自国ではエリートだけれど、
おそらく、その知見は、母国語で共有することが
難しいのは想像に難くない。

大東亜戦争後、独立を果たした東南アジアの国々で
母国語で、高等教育まで実施できている国は
残念ながらないはずだ。
アフリカ諸国でも、植民地時代の支配国の言語が、
支配階級の言語になっている。

母国語で高度な教育ができるということは、
日本では当たり前すぎてその重要性は
あまり認識されないが
世界的にも希少価値なのだ。

本屋さんや図書館に行ってみると良い。
あらゆる時代の
あらゆるジャンルの
国外の翻訳本がいかに多いことか。

英語教育は必要かもしれないが、
英語を頂点とする言語ヒエラルキーに汲みする必要は
ないとおもう。

母国語で高等教育を行える意味を
再度思い出してみてはどうだろうか。

それは不幸なのか、ドラマの始まりなのか

世界を
今、目の前にある状況を
どのようにとらえるかを
提示している。

身に降りかかったトラブルを
不幸と捉えるか、
ドラマの始まりと捉えるか。

現実は、常にコインの裏表で、
状況の対処の仕方で、
良いほうにも、悪いほうにも行く
ということを再認識できる。

現実を旅するための地図のような本。